2008年02月28日

法隆寺の再建・非再建論争

色々な時代は計があって今の法隆寺があるんですね。

再建・非再建論争
法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。

非再建論の主張
法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
薬師寺などに使われている基準寸法は(大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など
再建論の主張
日本書紀の記事は正確である。
飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。 など
この他、論争の過程で、飛鳥時代に2つの寺が並存していた(一方が焼失した)等の説も出された。
非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことから、次第に再建説が有力となった。

最新の研究
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した画像による年輪年代測定の結果を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は668年(天智7) - 685年(天武14)ころに伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀末の再建であることがあらためて裏付けられた。

伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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